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我が人生「母校が繋ぐ」出会いとご縁

* 誰もが思い・考えもしなかった世界中が驚いた出来事 が2つあります。1つは201912月初旬に中国の武漢市で最初の患者が確認されたコロナ感染、わずか数ヵ月で日本をはじめ世界中がパンデミックになり社会生活に大混乱をもたらしました。もう1つは 2022224日早朝、ロシアのプーチン大統領はウクライナ東部 のロシア系住民をウクライナの攻撃から守る 「特別な軍事作戦」と宣言してウクライナの首都キーウなどにミサイル攻撃や空爆の軍事侵攻を始めました。その後も無差別に住宅やエネルギー施設などライフラインの攻撃は激しく続いておりアメリカやヨーロッパの NATO 加盟国を巻き込んで戦争状態になっています。 ウクライナ市民や両国の兵士の死者数を合わせると数 10万人を超える人命が奪われたと言われています。戦争はどちらが勝っても負けても誰も幸せにならず平和をもたらしません。

*そうした中、太平洋戦争で軍人となり戦争に関わり日本の歴史に名を刻んだ方が母校・旧制脇町中学校(現在の脇町高校)の先輩に2人おられます。 1人目は太平洋戦争で「日本人捕虜第 1号」になった海軍少尉・酒巻和男さんです。 酒巻さんは1918年(大正7年)徳島県阿波町(現在の阿波市)馬場に 11人兄弟の次男として生まれました。昭和113月、旧制脇町中学校(第36回)を卒業後広島の江田島・海軍兵学校で厳しい軍事訓練を受けました。酒巻さんの事を詳しく知ったのは記憶力が並はずれていた酒巻さんがメモや資料もなく自身の記憶だけを頼りに戦後すぐに「捕虜第1号」と「俘虜生活4ヶ年回顧」を書いた手記がありました。その手記をもとに戦後 75 周年を記念して2020年(平成2年)に815 日に復刻版として出版された「真珠湾攻撃捕虜第1号酒巻和男の手記」を頂き拝読してからです。

1941年(昭和16年)128日未明、太平洋戦争の火ぶたを切ったのが日本海軍の 機動部隊の空母がハワイの真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を奇襲攻撃し戦艦など8隻を撃沈。その1時間ほど前に小型潜水艦「特殊潜水艇」5隻が21組で海中から魚雷で攻撃しようと真珠湾に向けて潜航、湾内に向かいました。湾内の潜入に成功した 2 隻と潜入出来なかった2隻は米軍に攻撃されて撃沈しました。5 隻のうち酒巻さんが乗った 1 隻だけが羅針盤の故障などで途中でサンゴ礁に乗り上げ座礁し操縦不能となりました。乗っていた2人は海に飛び込み泳いで陸を目指しましたが1人は亡くなり酒巻さんだけが浜辺に辿り着き米軍に捕まって捕虜となりました。その後1945年(昭和20年)12月までの4年間、米国本土の収容所で自殺を考えるほど過酷な捕虜生活を過ごしましたが 1946年(昭和21年) 1月に無事に日本に帰えりました。 帰国後はトヨタ自動車工業に就職しブラジルトヨタの社長など歴任、トヨタ自動車を世 界的企業に育て上げるのに貢献されました。酒巻さんの捕虜体験の手記は「戦争とは何か」「平和とは何か」をウクライナ戦争が続く中、改めて考えさせてくれました。 そんな「凄い日本人」が先輩におられた事は誇りに思います。酒巻さんの捕虜体験の 手記は新聞やNHKなどマスコミが「真珠湾から帰還、捕虜第1号」をテーマに取り上げドキュメンタリー番組や ドラマにもなりました。中でも作家の山崎豊子さんが戦 争と平和をテーマに最後に書いた3部作「約束の海」 の主人公の父親で真珠湾攻撃時に米軍の捕虜第1号となった帝国海軍の少尉のモデルになったことでも知られています。 山崎さんは2部を執筆中に亡くなられました。

*余談ですが酒巻和男さんは復刻版が出版された年の平成2年、故郷に帰郷し母校旧制脇町中学校(現脇町高校)の芳越同窓会に招かれ同級生と一緒に参加し講演をされたそうです。私の高校時代の恩師・佐藤(酒巻)久遠先生は酒巻さんのご兄弟で佐藤先生の娘さん・広沢(佐藤)久美子さんは私の同級生。またまた同級生の香田正人さんのご尊父・香田直人さんは旧制脇町中学校で酒巻さんの同級生で親友だったそうです。「捕虜第1号の手記」から繋がったいろんなご縁の不思議さを改めて感じました。

*もうお1人は旧制脇町中学校(第35回)卒業の吉田廣一さん(脇高の先生もされた 通称先頭先生・せんとはん)です。くしくも酒巻和男さんの旧制中学の1年先輩です。吉田さんは太平洋戦争に陸軍大尉として戦地のニューギニアに従軍し悲惨な戦争 を体験されていますが帰国後は家族にも戦争の事は殆ど語らなかったそうです。吉田さんの長女・松原(吉田)檀さんは私の脇高の同級生、次女の井上(吉田)潤さん は後輩で近畿支部の総会にも参加されていました。 井上さんが新聞社から父親の戦争にまつわる取材を受けた記事からの1部分引用です。記事では帰国後、家族にも語らなかった吉田さんの戦中戦後のことが紐解かれています。吉田さんの戦友がたまたま作家の足立巻一さんと学友だったことから足立さんが書き残した戦争や人との出会いを盛り込んだ手記「やちまた」の中に唯一、父親の吉田廣一さんの戦争体験が書かれているのを読んで初めて井上潤さんは戦地での父の行動・様子を知ったそうです。

*ニューギニアで戦況が悪化し撤退の途中、飢えとマラリアで川のほとりで倒れている戦友に吉田さんは偶然出会います。戦友は「俺を置いていけ」と言いますが吉田さんご自身もマラリアに掛かって死にかけているにも関わらず持っていたロープで戦友の腰を縛って背負うようにして30キロあまり歩いて集結地の町クムシにたどり着いたそうです。ビルマ、カンボジアと転戦した後カンボジアから日本に帰る最後の飛行機を待っていると6人乗りの飛行機はすでに満席、そこに身重の若い女性がやってきて泣いて搭乗を訴えました。吉田さんは自分の席を譲って現地に残ります。実家にはすでに戦死の公報が届いていて家族でお葬式を済ませてましたが 1946年(昭和 21年)5 月に「ただいま」とサイゴン経由の船便でひょっこり帰国されたそうです。復員後は穴吹高校で長年にわたり教員として勤め母校の脇町高校の教員もしていましたが1967年(昭和42年)に不慮の事故で48 歳の若さで亡くなられました。カンボジアで飛行機の席を譲った女性の方とはずっと手紙でやり取りをしていたようで死後、職員室の吉田さんの机を同僚の教員が片付け整理していた時その手紙を見つけました。同僚の方が女性に吉田さんが亡くなられたことを連絡すると菩提寺の最明寺に墓参りに訪れカンボジアの事を涙ながらに話されたそうです。戦友を見捨てず、身重の女性と赤ちゃんを救う、自分の事より他人に対する思いやり優しさがあふれるエピソードです。

*吉田さんが「先頭先生・せんとうはん」と呼ばれるのは何事も1番にならないと気が済まない性格から「先頭」と書いて「せんとうはん」と親しみを込めた郷里の方言・あだ名だそうです。先生には戦争と平和に関わるエピソードがもう一つあります。戦前、日本体育大学で学ばれ重量挙げ、柔道、レスリング、ラグビーとスポーツ万能。教員としてオリンピック選手も育てています。吉田さんは現役の重量挙げ選手として活躍したびたび東京に出かけていました。そんな折にご縁があって「長崎市の平和 祈念像」を制作した長崎県出身の著名な彫刻家・北村西望のアトリエでモデルになっていたことを吉田先生は北村西望がデザインした素描を教え子に見せながら語っていたそうです。祈念像の台座裏には北村西望の言葉「山の如き聖哲、それは逞しい男性の健康美」と刻まれています。吉田先生が平和祈念像のモデルだったことは知っていましたが改めて確認、世界平和を祈る祈念像に母校の先輩・吉田大尉の魂が宿っていることに誇りを感じます。

* 戦争とは関係ありませんが母校のグランドの一角に高さ3メートルくらいの石碑が 建っているのはご存じだと思います。碑には「中馬庚先生野球の碑」と刻まれています。裏には「旧脇中第四代の校長・中馬庚先生は日本の学生野球育ての親であり、また文字通り野球の名付け親であった」と記されています。150 年前、明治の初めに野球が米国から日本に伝来したときは「Baseball・ベースボール」に訳語がなく誰が訳し たのか? 俳人の正岡子規が訳したとか言われてました。子規は野球用語でピッチャーは投手、バッターは打者とか訳したそうですが「ベースボールを野球」と訳したのは実は中馬庚先生でした。先生は「脇町高校百年史」に1915年(大正 4年)に旧制脇町中学校の校長に就任。先生がベースボールを「野球」と訳したのは第一高等学校のベースボール部で2塁手として活躍し練習の合間にルールの解説や翻訳、部の歴史の編集に取り組んでいた頃だそうです。1894 年(明治 27 年)部史の巻頭に「我が部ヲ野球トセバ大(おおい)ニ義ニ適セリト信シテ表題ハ野球 部史ト題シ」と記し翌年発行しました。「Ball Play in Field」(野原でする球遊び)という意味から、中馬先生が「野球」と翻訳。1897 年には単行本で日本初とされる解説書「野球」も出版したと書かれています。1970 年には特別表彰で野球殿堂入りしています。

*このように母校には日本の歴史に名を刻んでいる諸先輩方がたくさんおられます。私の人生は母校の存在抜きには語れません。脇町高校の歴史は1896年(明治29年)徳島県尋常中学校第一分校として開校。その後徳島県立脇町中校として独立し校旗や徽章、現在の生徒会にあたる「芳越同窓会」も創立されています。1917年(大正4年)には土井晩翠作詞・竹澤貞次郎作曲の「見よ彼の蒼天雲行く処」で始まる校歌が発表されています。その後、私が生まれた昭和22年に新制中学校が発足したのに伴い1948 年(昭和23 年)徳島県立脇町高等学校が開校し2006 年(平成 18 年)に創立 110 周年をむかえ現在にいたります。旧制の脇町中学校と 高校の同窓会組織 「芳越同窓会」がありますが社会人になってからの「芳越同窓会近畿支部」との出会い関わりは私にとって大 きな存在になっています。近畿支部の歴史は1981年(昭和 56年)1112 日に吉岡利固氏が中心になり東京支部、中部支部、岡山支部に続いて土井平一氏が中心になって活動していた神戸支部を発展的に解消し近畿支部を設立しようと呼びかけました。その結果主旨に賛同した110人が集まり、近畿支部再建発起人会を大阪第三ビルの中国大飯店で開催しました。支部長に吉岡利固氏、常任幹事に土井平一氏、上野正夫氏、重本浩 氏ら10人を選任して新体制の近畿支部が発足、毎年開催されるようになりました。その頃、私はNHK広島放送局に勤務しており近畿支部と関わるようになったのは関西に帰ってきた1992年(平成4年)からです。以来できる限り総会には参加して先輩後輩の同窓の方々と親睦交流を楽しんできました。そうした中、公私にわたってお世話になっているお1人に平田彰三郎さんが(高8期)がおられます。平田さんは1966 年(昭和41年)に大阪で平田ネジ製作所を創業し、工業用から住宅用まで東京スカイツリーにも使われている多種多様なネジを開発製造、今では世界的に知 られる平田ネジ株式会社に1代で育て上げられました。平田さんは近畿支部の発足当時から役員になられて現在に至るまで支部の活動だけでなく総会前のゴルフコンペのお世話を頂くなど顧問としてなくてはならい存在です。

*2008 年(平成 20年)の役員会で近畿支部が設立以来、30年近く経ち活動の歩みを冊子にしてはどうかという提案がなされました。そして、重本浩支部長を代表にイギリスの文豪ディケンズの研究家として知られる広島大学の元教授・西條隆雄先生が中心になり、副支部長の井口昭則さん、私の3人が編集員となり発刊に向けて準備を進めました。ところが冊子のもとになる資料を集める段階で西條先生が設立当時を知る支部長はじめ役員の方に問い合わせをしても誰も記録や資料をもっていないことが判明。そうした中、設立当時から役員として近畿支部の活動に携わっていた井口さんが過去のすべての案内状や総会の式次第、支部長挨拶、新聞記事の切り抜きなどをきちんと整理し段ボールに保管されていました。また脇高の事務長をされた小司都裕さんに同窓会の「芳越誌」から近畿支部に関わる部分の資料のコピーや近畿支部創設に携わり脇高の校長をされた青木美智子さんからも発足当時の資料を送って頂きまし た。そうした資料の収集にご苦労された西條先生のご尽力と編集で 2009 年(平成21 年)1115 日、芳越同窓会「近畿支部のあゆみ」は無事に発刊出来ました。 * 題字は当時京都の大覚寺の御門跡をされていた下泉恵尚さん(中45期)に、表紙の校舎の絵は佐藤文治画伯(高11 期)にお願いしました。内容は支部の活動の記録だけでなく同窓会長、歴代支部長や役員の方々の母校の思い出、会員の皆さんからの母校愛にあふれた数々のエッセーが寄せられた文集でもあります。同窓会活動の中で私の同期 3 人、関東支部・山本武明さん、近畿支部・ 井口昭則さん、徳島支部・小笠復夫さんが 10数年にわたり支部長としてそれぞれの支部の運営に尽力されたのは同期の誇りです。同窓会活動をお手伝いする中で 同窓の方々との交流も私の社会人になってから現在まで私の「人生は出会いとご縁が大切」という生き方の ベースになっています。

 

*最後に親しくしていた京都の尼門跡の方から頂いた本の中に「人間はあらゆるもの が支え合って存在していること。ご縁,お陰さまに生かされているのだと気づくこと。 11つの出会いに意味があるということ。幸福を受け止める器は自分自身の心一つで決まるということを忘れないでください。」というのがあります。その中の言葉か ら母校にお陰さまの気持ち感謝の気持ちを何らかの形で伝えられないかと思っていた時に2006年(平成18年)の近畿支部の総会に来賓でご出席された下川 清 校長先生から母校創立110 周年記念行事の 1つとして、後輩向けた講演の依頼がありました。「人生における出会いとご縁・進路の選択」をテーマに私の山あり谷ありの人生体験をお話させて頂いたのも良い思い出になっています。これからもふるさと徳島とのご縁を大切に、芳越同窓会・近畿支部とのご縁を大切 残りの人生を過ごしたいと思っています。

投稿:                          土井 春義 (高17回)